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filo_mor |
08/06/09 14:54 |
序
イウェカが輝いている。
雲が出てきたせいだろうか? エルフの永遠の繁栄を表すという欠けない月はしかし朧ろに赤く、まるで血の滲む矢傷のようだと思った。
「母上……」
春の花弁のような唇が、一瞬ぽそりとうそぶいた。言葉は無意識だった。意外な言葉に少し驚き、ふと降り掛かったアザミ色の髪を掻き上げる。
―風が吹いた。
泉に映る波紋は不意にイウェカの姿を混沌と掻き消し、昏い水面へと飲み込んだ。カスタネアが顔を上げ、水面から目を逸らす。そして見上げた。
赤い月。白い月。
ラデカが、母を追う幼子のようにイウェカの後を追って昇ってくる。空が徐々に血の色を失い、柔らかなピンクに支配されていく。
―62年に一度、2つの月は同じ場所から昇る。それが古王国時代から続くエルフの一年。ヒト族の62倍の時間を与えられた、聖なる種族のそれが聖なる時間。
そしてカスタネアは今日、「22歳」になった。
風が雲を取り払う。
瞬く星は黒い紗幕に銀の粉を散らしたように煌めき、ありとあらゆる色彩を夜空にまき散らしていた。ふとカスタネアは、「なぜ緑色の星はないのであろう?」と他愛のないことを考えた。
「母上……」
今度は自ら呟いた。
まるでそれが、大切なおまじないであるかのように。
1.「裸の狐」
ジ…ジュッ…!
ジリジリとキャンプファイアの直火で炙られた肉から脂が溶け出し、不意に滴った。瞬間、オレンジの炎から黄金の輝きが爆ぜ、同時に香ばしい煙が若い巨人の鼻腔をくすぐった。
程良いタイミングを計って串のまま地面に突き立てた肉を手に取り、肉醤(ジャイアント特有の肉の塩漬けから作る液状の調味料)に浸してまた同じ場所に串を戻した。斜めに刺さった串は、その先に揺れる肉を再びこんがりと炙り出す。
若者がこれ程の規模の―それこそソレアの何十何百倍もの平原を見たのは初めてだった。そこにはほぼ一年中雪に閉ざされる故郷にはない生物相があり、パーティーの他のメンバー同様、陽が落ちてなおまだ興奮は納まらなかった。まるで只の冒険者にでもなったかのようにワクワクした。
やがて肉の表面にカリカリとした褐色の焦げ目が付いた。
若者は自分の串を手に取ると、湯気の立つそれを慎重に前歯で少し千切り取った。そして肉片を奥歯へと送り噛みしめると、柔らかな肉の繊維は微かな弾力で反発した後ほろりと崩れ、その間からは溶けた脂が肉汁を伴ってじゅるりと染み出してきた。
肉醤の強い塩味と溶けた脂の甘さが口の中で混じり合い、同時に香ばしい肉の焼けた薫りが一瞬で鼻から脳へと駆け上がった。表現できない陶酔のような感覚が体を支配する。
こんなに肉を旨いと思ったのは初めてだった。
故郷バレスから雪原を渡り地下通路を抜け、いつ終わるとも知れぬ渓谷を進み続け、遂に新天地に到達した充実感と空腹が、何より肉の味を引き立てていたのかも知れなかった。
―極寒のバレスに住まうジャイアントには農耕の習慣がない。ただ狩猟によってのみ生活を支え、しかしそれで今まで豊かな文化を築いてきた。
そして種族は栄えそれに従って人口は増加し、そして―今や新たな狩り場を見付けなければ都を養えない程となっていた。
王の命令はシンプルだった。
『豊かな狩り場を発掘せよ』
そして何組かのパーティーが、豊かな「獲物の楽園」を求めて探索の旅に出た。
そして我々が見付けたのだ!
地平線まで続く、まるでエメラルドのように輝く緑の平原!
牛のような獣も猪のような獣もたくさんいる。更にゴブリンキーパーやサティロスのような二本足の獣もそこここに散見できた。
「探索の成功を祝って、今日は珍しい物で祝宴といきたい」。そう誰かが言いだし、そして何人かがキャンプの準備をする傍らで何人かがその「二本足」を狩り立てに行った。サテュロスの肉は少々固いものの匂いもなく非常に美味であるように、ジャイアントの間では「二本足の獣は美味」は常識だ。
そして何匹かの獲物がキャンプに持ち込まれ、「晩餐」は始まった。
痩せた獣で一匹からそれ程の肉は取れず脂肪も比較的乗っていなかったが、しかし体毛や皮は薄く、下処理は楽ですぐに料理に取りかかることが出来た。パーティーの誰かが、早速その獣を「裸の狐」―ライザと名付けた。
若者は今度は大胆に肉に齧り付き、噛みしめて肉汁の甘みをじっくり味わった。とろけるような肉は、やがて口の中で淡雪のように消えていく。
旨かった。
初めて食べる肉の味と旅の成果―この月光に輝く大平原―に酔いながら、若者は次の串を地面から引き抜いた。
少し焼けすぎたように見える肉が、悠々と串先に揺れている。
※ ※ ※
「―!!」
突如響いた絶叫に若者は飛び起きた。一瞬後には両手にメイスを掴み、腰を落として周囲を警戒する。
帰途のことを考えてキャンプキットは使わず、パーティー8人はキャンプファイアを囲むように眠っていた。その方が獣などに襲われても気配は察しやすい。それは”戦闘民族”であるジャイアントが他の土地でキャンプを張る常識だった。
しかし周囲には何の気配もなく、しかし見張りに起きていた仲間は既に絶命しているようだった。
「……………」
背後は飛行不能の岩山、前は遮る物のない平原。―何が起きた…!?
仲間が素速く火を消した。途端に闇が辺りを覆い、味方を姿を包み隠す。
これで敵は近接に移ると考えた。近接の距離に敵を確認したらミルで吹き飛ばし、後はどうにでも出来る。間接的に攻撃する方法はアトラートルか弓か魔法しかないが、見えない距離から届くような攻撃などあるはずがない。そして見えた瞬間「突進」をかければ、敵の正体が何であれ恐れることはない。
―どこから来る…?
後ろからの攻撃は不可能。前に遮蔽物はなし。パーティー7人それぞれが突進を準備して敵の出現を待ち構えた。
「……………」
湿り気を帯びた夜気が肌にまとわり付く。緊張が空間に張りつめ、お互いの呼吸が聞こえるような錯覚がした。
キラ、と光った。
遙か彼方、地平線の果てで何かが一瞬閃いた。
何だ? と思った刹那、光は一直線にこちらへ向い、そして渦を巻く空気が轟音と共に耳元を吹き抜けた。
遅かった。
振り向いた。
光は隣でホブネイルナックルを構えていた仲間に直撃し、そのまま岩壁まで吹き飛ばした。
「―何っ!!」
理解できなかった。
魔法ではないようだが、しかしこんな武器は知らなかった。まるで流星に襲われたような威力。
と、地平線にぽつり、ぽつりと白や黄や緑の光が灯った。そしてぼんやりと白く輝く―馬だ!
ドドッ、ドドッ…
馬だ!
馬が地面を蹴る低い地鳴りが波のように押し寄せてくる。
ヒュン!
風を切る音が肩当てに当たった。―矢だ! 間違いない! 敵は弓を、それも常識外れの射程の弓を使う!
ヒュン!
ヒュン!
ヒュン!
やがて流星雨のように矢が降り注ぐ。
突進からディフェンスに構えを変えた仲間でさえ、成す術なく数え切れない矢を全身に受け、針山のようになってどうと倒れた。チラと目の端で捕らえたその顔には、もう誰だか分からない程の矢が正確に突き立っていた。
不意に脇腹にピリッと痛みを感じた。手をやるとぬるりとした温かな感触と共に、裂けた自分の皮膚が手に触れた。
―こんな傷!
ほんの少しかすっただけだ! こんなのは傷の内に入らない! と気合いを入れた瞬間、視界が暗くなり世界がぐにゃりと歪んだ。
毒だ! と瞬時に察したが、しかし内臓は急激に収縮し、脳はぐるぐると回り出した。そして徐々に体の力が抜けていく。―およそ15秒間隔で。
―何なんだ一体…!
ヒュン!
左腕。
ヒュン!
左脚。
ヒュン!
右腕。
ヒュン!
左肩。
混乱する思考をよそに、一つの風音ごとに矢は命中し、血が噴き出す。
武器を取り落とし、その最中にも体力は奪われ、そして…
そして見た。
輝く白馬に跨る人影。
己れの身長はあろうかという緑に光る弓。繊細な装飾が月光に深く陰影を作る金属鎧―。
それが、背後の暗闇に半ば溶ける幾百の騎馬軍団を率いる将の姿なのだと、若者は一目で理解した。
「……………あぁっ」
喘ぎ声。
それは死に往く者のみが持ち得る知覚だっただろうか?
がっくりと膝を着き薄れゆく意識の中で、しかし若者は戦いを止めなかった。―とにかく防御力が欲しい、と半ば無意識に考えた。
「……call cuberic!」
そして呼び出されたミミックの中に若者は倒れ込んだ。
暗黒に沈みゆく自我。死の翼が優しく若者に舞い降りる。
その時、ようやく若者は悟った。
あの、なぜか裸で木陰にいた”獲物”は未知のMOBなどではなく、ただ自分たちが知らなかっただけの知的種族だったのだ。世界にいるのはジャイアントのみと信じ切っている僕たちは、誰もそれを確認しもしなかった…。
僕は…
無意識に、涙が滲み出した。
―人間を食べてしまった。
ふと白馬に跨る将の、誇らしげに尖った耳が思い浮かんだ。
若者は心の中で謝罪した。何度も。何度も。
しかし、もう取り返しは着かなかった。
そして若者は自分の血が箱の底に溜まっていくのを感じながら、やがて永遠とも思える眠りへと落ちていった。
全ては、もう遅かったのだ。
そして―戦争が始まった。
2.「黄昏の蜃気楼」
カスタネアは生まれた時から族長だった。
もちろんその時にも政に長けた長老も、誰もが惹き付けられる若者もいた。言葉も話せない赤子よりもずっと族長に相応しい能力を持った者が。
しかし、それではだめなのだ。
流浪の果てに辿り着いたオアシスにゼロから都市を築き上げ、種族をここに根付かせるには、「能力」よりもむしろ「血統」が必要だった。だから、エルフは再び王を頂いた。
族長を「王」としてそれを中心に結束するエルフ族には、それが形式的であれ「象徴」が必要だったのだ。それがカスタネア―古の妖精の血を引く最後の一人。
振り向いた。
月光を背負い黒々と聳えるメモリアルタワーの影と並んで立つカスタネアが、跪きずらりと居並ぶ「臣下の」エルフと向き合う。
「時は満ちた―」
22歳の誕生日に約束されていたそれは記憶。
1200年前から続く戦いに終止符を打つ蓄積された恨み。
連綿たる恨みは塔の中で澱固まり、遂に昏い光を放ち出す。
「……………」
カスタネアは懐から儀式の触媒となる巨神像の心臓を取り出すと、一同を改めて見回した。確認したかったのかも知れない。これから自分が成すことが「正義」である、と。
しかしただ一人、兵士長ヘーゲルの目だけが自分を刺していた。
穏健派で知られるヘーゲルだけが、最後までこの「滅亡魔法」の使用に反対していた。知性ある者同士、話し合えば分かるはずだ、と。
しかし―エルフにはジャイアントと話す言葉はなかった。今や言葉は共通となっても、そのような穢らわしい言葉は持ち合わせてはいなかった。
そして。
カスタネアはヘーゲルに、その強い眼差しに背を向けた。―これは1200年前から決まっていたことなのだ、と自分に言い聞かせて。
一呼吸の後、美しいワインレッドの髪と同じ色に染め上げたセリナペナルローブを音もなく脱ぎ落とした。エルフの女はローブの下に服は着ない。途端に華奢な裸身が、月光に白く輪郭を輝かせた。幅の狭い肩から細い腕は流れ、優雅に曲線を描く腰へと添えられている。
メモリアルタワーは儀式の前段階として既に何日もかけて覚醒されており、カスタネアがそっとその表面に触れると、小さな振動を感じることが出来た。同時に、カルー森の古王国時代から続く膨大な記憶のほんの一端が、光の柱となって脳に飛び込んでくる。
(いつか帰れるのだろうか…? 森へ―)
カスタネアは目を閉じ、記憶に押し潰されないよう自分自身を確認しながらも、ふと望郷にも似た想いに駆られた。そして「自分はフィリア生まれなのに」と思い直し、一人小さく微笑んだ。
エルフは森の民だ。
母の名を冠したフィリアは確かに美しい、砂漠に輝くアクアマリンのように美しい都市だが、しかし「故郷」ではない。全てのエルフが、今まで存在した全てのエルフ族が、砂漠の果て―今や遺跡として姿を留めるのみとなってしまった「森の王国」への帰還を望んでいる。
フィリアは美しい。
背後から峻険な岩山に抱かれる天然の要害の地にあり、砂漠にして水源も清く枯れることはない。雨も降り草花も育ち、農耕も牧畜も盛んで民は皆豊かに暮らしている。―しかし、違うのだ。
魂の故郷へ。森の王国へ。帰りたい。
故に―
故にジャイアントは滅びねばならないのだ。
千年の恨みを晴らし、帰還の悲願を果たすために。
『ジャイアント種族に永遠の黄昏を』
―そして滅びよ。一人残らず朽ち果てよ!
そのカスタネアの思いを受け、メモリアルタワーが唸り出した。小さな唸りはやがて音叉のようにタワー自身に共鳴し、増幅して水面に規則的な波紋を描き出していく。
目を開く。
その虹彩は決然の光を帯び、今やタワーの、更にその向こうの未来をも見詰めている。
(黄昏に沈むがよい―!!)
そしてタワーの幾何学紋様の一部に、黄昏色の鈍い光沢を放つ巨神像の心臓を嵌め込んだ。
タワーの唸りが大きくなる。ほぼ同時に黒い霧のようなものが塔内部から滲み出し、もやもやと最上部に集束していく。
儀式は完成した。
街一つをすっぽりと覆い尽くし、何日にも渡って効果の持続するミラージュミサイル。それが今まさに放たれようとしている。
―エルフ族1000年の怨嗟の全て、その身に受けよ!!
カスタネアの髪がふわりと逆舞う。地面が小刻みに震え、泉が白く波を立てた。
突如、ドン! と低く空気が鳴った。腹の底に響く重低音に、居並ぶ一同が思わず息を詰める。
殆どの者は何が起こったのか分からなかった。
しかし続いていた地鳴りは止まり、いつもの静寂の夜の中にただカスタネアがぺたりと座り込んでいた。剥き出しの肩を大きく上下させ、傍目にもMPを使い果たしているのは明らかだ。
侍女が濃い青の液体の入った大振りのグラスを盆に乗せ、カスタネアに歩み寄った。そして傍らに落ちたままのローブを拾い上げ、そっとその白い裸身を隠す。
カスタネアはグラスを受け取ると中身を一息に飲み干し、そしてまだふらつく足元を何とか誤魔化しながらも、しかし毅然と一人で立ち上がった。
踵を返し、半ば侍女に体を預けながらも、整然と跪くエルフたちの間を通り抜ける。
エルフたちは皆族長の「偉業」を讃え頭を垂れて敬意を表する中、しかし顔を上げじっとカスタネアを見詰める双眸があった。その非難の色を隠そうともせず。
…しかし事はもう勃きてしまった。今更後戻りは出来ない。
ヘーゲルの脇を通り過ぎる。
次第にヘーゲルの目が非難から憐憫へとその色彩を変えていくのを、カスタネアは認めた。
ジャイアントに復讐することだけを教えられた哀れな少女。どんなに口で話し合いを訴えても、この塔に蓄積された1000年の恨みの記憶が、圧倒的な説得力で少女をねじ伏せる。
『何を今更! お前の記憶にはないのか!? 切り刻まれ、焼かれ、喰い千切られた祖先の無念が!!』
或いはメモリアルタワーがなければ、共通の記憶がなければ説き伏せられたかも知れなかった。敵とは言え、平穏に暮らす市民までも全てを根こそぎ殺さずとも済んだかも知れなかった。
―閉ざされた王国だけで繁栄し、外へ目を向けなかった報いがこんな所に顕れようとは。
しかし全ては時既に遅し、だ。
繰り返された近親婚により、エルフがその遺伝子に抱え込んでしまった『忘死病(メロノウム)』から逃れるためには「覚えている」しかない。メモリアルタワーはそもそもそのために造られた。
それが今―ジャイアントを絶滅へと追いやろうとしている。
…ミラージュミサイルはそれ自体で死ぬことはない。それは”滅亡魔法”「トワイライトミラージュ」も同様だ。しかしたった1になってしまったライフでは、バレスの冬は耐えられない。そして―その地獄を生き延びた者だけが再び回復し、武器を携えてやって来るはずだ。
カスタネアが立ち止まった。視線を前に向けたまま、うそぶくようにそして口を開く。
「すまぬな。またお主に剣を持たせてしまうようじゃ」
その言葉に、ヘーゲルの表情が不意に緩んだ。
「―まったく。銀行の時もそうだ。いつもあなたは私に汚れ仕事を押しつける」
「……………」
返事はなかった。
ただ高級シルクの衣擦れだけが、さら…とヘーゲルの尖った耳を撫でていった。
ふと夜を見上げた。
魔法の衝撃に残っていた雲は散りぢりになって吹き消え、今や赤い月は禍々しい程に鮮明な輪郭で、エルフの都を鋭く見下ろしていた。
静かだった。それは星の瞬く音も聞こえる程。
そんな静寂の中、同じこの空の下で今まさに起こっているであろう惨劇を想像するなど、誰にも出来なかった。
(#2に続く)