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Nobody |
06/08/05 19:57 |
「楽園と呼ばれる世界を、見たくはないか?」
唐突に発せられた言葉が、薄暗い揺り篭に眠る少女の元へと届けられた。
ここにいるのは少女だけ。護衛の騎士も給仕の女中も、絶対にこの部屋までは入ってこない。
――否。入ってこれない。
ここは少女だけの楽園。少女のためだけに作られた、虚ろな揺り篭なのだから。
「…誰?」
「導く者」
だからこそ、この声が不思議だった。この閉じた世界に誰かがいる?
少女はむくりと体を起こす。まどろみに彷徨う意識のまま、その言葉に耳を傾けた。
「私は、君の望みを叶えようと思う。この仄暗い闇の中では決して見ることが出来ない光の世界へと、君を導こう」
少女は、自分の心が躍るのを抑え切れなかった。この死んでいるように穏やかで、牢獄のように無機質な揺り篭から、広い広い世界へと連れて行ってくれるというのだ。
少女にとって、セカイとはこの揺り篭の中だけであった。外の世界なんて想像もしたことはない。幼い頃は、そんなものはないのだろうなんて思ってもいた。
でも今は知っている。外には広い世界があることを。自分の全てだったこのセカイが、ただの牢獄でしかないことを。
知っているからこそ、こう思う。それは何て甘美な誘いなんだろう。そう、正直な話。退屈と鬱屈と陰鬱と湿気には、もう飽き飽きしていたのだ。
「ただし、代償として君の名前をいただこうか。その名、あちらの世界では少々邪魔になるのでね」
その取引に、少女は少し考える。突然やってきて、こんな事を言うこの人は、なんなのだろうか…と。
やがて思い当たったのか、少女は顔を上げた。微かに首をかしげながら。
「……押し売り?」
「…は、はは。まぁ、そう取れなくもないだろう。急かして悪いが、答えは出たのかね?」
少し怯んだような相手に満足したのか瞳を閉じて微笑んだ少女は。
――やがて、コクリと頷いた。
Chat de ruelleへようこそ!
第零話 少女と男と怪物と
湖畔の宝石、イメンマハ。広大な湖と雄大な自然に抱かれた、エリンの大都市である。
そのイメンマハの中心街よりやや外れた場所に、小さな喫茶店があるという。
まるで空き地で昼寝をする猫のように、そこでは時間がゆっくりと流れ、訪れる者に心の安息を約束する。
オープン間もないこの店には未だ常連と呼べる客はいないものの、
マスターの穏やかな笑顔と陽だまりの香りのするコーヒーが話題となっていた。
そんな喫茶店に、今日も一人の客が訪れる。
鋼色の髪と静海の瞳を持つ男は、かつての旧友を想いながら店の戸を潜る。
うなじで一つに括られた、騎士の誇りであるブレイズを苛立たしげに払いながら。
やがてその姿が完全に店の中に消えた時、彼は一つの物語を紡ぎだすだろう。
その店の名前は…まだ、ない。
SIDE:Frederic
「ルンダダンジョンに謎のモンスターが現れたらしい」
今、イメンマハはその噂で持ちきりだった。
つい先日、とある冒険者の一団がダンジョンで行方不明になった。早朝、朝靄と共にダンジョンへ向かった彼らは次の日の夕刻になっても戻らず、それを探索に行った警備隊からも音沙汰がない。物見高く、そして恐れを知らない他の冒険者達もダンジョンへ出かけて行ったが、彼らの運命は今のところ二つのみだ。そのまま消息を絶つか、深手を負って逃げ帰るか。
逃げ帰った者達から漏れた言葉は、いつしか尾ひれをつけ噂となり、独り歩きを始めていた。
曰く、ゴーレムよりも巨大。曰く、翼を持ち眼にも止まらぬ速度で襲い掛かる。曰く、強力な魔術を連射しながら疾駆する。
どこまでが本当で、とこからが嘘なのか。誇張された噂ではまるでその全貌は掴めず、ならば自分で確かめてやると勇んだ者達によって、また犠牲者は増えていく。
かつての統治者が消息不明になったのは少し前の話だ。市民たちに知られることなく静かに、しかし深く混乱した支配階級だったが、聖騎士達の働きにより当初の混乱を収めてはいた。
だが、この事件が燻った火種に火をつけかねない。
それがわかっていながらも、聖騎士達は動くことが出来ないでいた。統治者・エスラスの穴を埋める為に、彼らの力の一片たりとも細事に裂くわけにはいかないのだ。
そこまで一息で話し、アイディンは差し出されたカップからコーヒーを飲み下した。
程よく冷めた液体が喉を撫で、仄かな苦味が後味として静かに口に広がる。
その温度と味に、アイディンの眉間に寄ったシワが僅かに解かれた。海色の瞳を閉じ、うなじで鋼色のブレイズが、まるで狼の尻尾のように踊っていた。
実は彼、その厳つい顔とは裏腹に猫舌で熱いものが苦手だったりする。今のところ誰にも言っていない秘密だ。
ちなみに休日には空き地や路地裏の野良猫にエサをやったりもしている。可愛いものは大好きだ。勿論それも秘密だが。
「どうでしょう?」
それを見越したかのように、彼にコーヒーを提供した人物――つまりはこの喫茶店のマスター――が、静かな微笑みを浮かべる。
「うむ。味覚に関しての自信はないが、ここのコーヒーはなんというか…そう、暖かい味がするな」
口にした誰もが、微笑を浮かべてしまうような…そう言いかけて、彼は若干慌てて口をつぐむ。この雰囲気に流されて、何を似合わないことを。
「ありがとうございます。やはりそう言ってもらえると嬉しいですね」
微笑を深めたマスターは、アイディンの秘密の葛藤など気にした風もない。
アイディンは暫く余韻を楽しみ、店内を見渡した。
マスターの趣味からか、使い古しの倉庫を買い取って改造したという店内は古木を材料とした木材がふんだんに使われている。
板張りの床、木目の天上。太く、歪でありながら芯の通った木材で組まれた梁。カウンターは頑丈な木材で組まれ、表面には埃一つ落ちていない。その奥にはいくつかの酒と、古今東西の茶を集めたラックがある。その材料もまた木材だろう。
そんな店に漂うのは、イメンマハという大都市にあるにも関わらず田舎のようなのんびりとした空気だ。長い時を経た木材でしか味わえない独特の暖かさと素朴さ。それがここには満ちている。
疲れた心と体、その両方を癒してくれる場所。とかく時の流れが早く感じてしまいがちな都会人にとって、そんな場所はある種の楽園となる。近衛兵の頭として多忙を極めるアイディンにとっては尚更だ。
しかし、その雰囲気の最もたる発生源は、アイディンの目の前で、カウンター越しにグラスを磨いているこの男だろう。
その顔には常に微笑が浮かび、見たものをホッとさせる陽だまりのような男。
(しばらく音信不通だったのに、まさかこの街にいたとはな。…王都からこちらに戻って来たときに驚いたものだ…)
七年来の友人の事を、アイディンは静かに考えていた。
本当に楽しそうに喫茶店の開店準備をするマスターを見つめ、アイディンは表情を改めた。再び寄り始めた眉間のシワを自覚しながら、彼は口を開く。
「我ら騎士団は動けん。この機に乗じてよからぬ事を考える輩が出てくるだろう。それを防がねばならん。イメンマハの警備兵も然りだ。かと言って冒険者に頼り解決を待っていては、今のままの悪循環だ。だからお前に頼む」
彼らしく用件を簡潔に話しきった。
グラスを磨きながら聞いていたマスターは、コトリとそのグラスを置き、次のカップを手に取りながら唇を開いた。
「なぜ私なんです?確かにかつては剣を取り、戦場を駆けたことはありますが…今の私は見ての通り、ただの喫茶店の経営者。荒事なんて、とても出来ませんよ」
「言葉遊びをするために、わざわざ足を運んだわけではない」
「事実です。私に何を期待しているのですか」
「事件の解決さ」
そこでアイディンは言葉を切り、視線を上げる。そして、マスターの深紅の瞳にその視線を固定した。
「お前なら出来る。俺はお前のことを、お前以上に知っている」
鋼を思わせるアイディンの瞳を、マスターは静かに受け止める。心には漣が立っていたが、それを表情の表にも出さぬまま。
「再び立ってくれ。―――友よ」
はぁ、とため息をつき、曇りの消えたカップを置く。白い布巾の上には、カップとグラスが綺麗に並べられていた。
「まるで口説き文句ですね。そういうモノは将来の奥方のために取っておいてください」
「なに、お前を口説くのならば…未だ姿すら見せぬ奥方とやらも文句など言うまい。私はこんな言葉、伝説に名を連ねる英雄にさえ使わんさ」
フンと鼻を鳴らしながら言うアイディンに、マスターは意外そうに眉を跳ね上げた。
「驚いた、冗談も言えるんですね。その口からは説教しか出ないのかと思っていましたよ」
「私とて木石から生まれた訳ではないぞ。必要ならばそれくらいはな」
彼が顔をしかめるのは、やはり照れ隠しなのだろうか――。マスターはくだらない事を考えながら、どこか頭の隅でその依頼に惹かれる自分がいることも否定できなかった。
だが、わかっている。何かの為に死ぬなんて間違っている。たとえ刃が肉の脂で欠けて、ただの鋼の棒となるほどに斬り続けても、身体から匂いが抜けないほどに敵の返り血を浴びても、救う事が出来るのはほんの一部の人々だけ。剣だけでは大切な、本当に守りたい誰かは救えない。まるで掌の中の砂のように、指の間から零れて落ちる。
だから、彼の言うべき言葉は決まっていた。
「駄目です。私にはその魔物を倒すことは出来ない」
「……そうか」
アイディンの眉間に刻まれたシワが、さらにその本数を増した。数枚の金貨をカウンターに置き、席を立つ。
そのまま何も言わずに出口の扉に手をかけたところで、アイディンはマスターの声を聞いた。
それは、彼が知らない迷いと苦悩に満ちた声であり、
彼が知る、決意と正義に燃えたあの頃の声だった。
「だから、調査だけです。その魔物とやらの存在の是非、種族の断定、あるいはその能力。情報だけを持ち帰ってきます。危なくなったら本当に逃げますよ」
アイディンはマスターに背を向けたまま、その顔に微かな、しかし深い笑みを浮かべた。
「ああ、それでいい。頼んだぞ、フレデリック」
扉を開けて外に出る。そのまま去ろうとして、彼は思い出したように立ち止まる。そして肩越しに振り返った。
「コーヒー、なかなか美味かった。また来る」
「今度は普通のお客として来てくださいね」
マスターの…フレデリックの言葉に口の端だけで笑みを形作り、今度こそアイディンは歩き去った。
そして喫茶店の中には一人、フレデリックだけが残される。深紅(ワインレッド)の瞳を閉じ、後ろに撫で付けた茶髪混じりの黒髪を掻く。
(細事と言いながら私のような部外者に依頼する。仕える者の正義とは辛いようですね、アイディン。…本音を言えば自分が乗り込んでいきたいくせに、彼も相変わらず不器用です)
その姿勢につい受諾してしまった己も似たようなものだと思い起こし、フレデリックは苦笑を浮かべた。
(けれど、旧友の頼み。ま、やれるところまでやってみますか)
開かれた深紅の瞳には、少年のような好奇心と、老人のような苦さが浮かんでいた。
≫cp2へ続きます