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Nobody |
05/08/12 17:48 |
何年も連れ添った夫は、ずいぶん前に私を置いて逝ってしまった。
先に逝ってしまうのですか、私はまだ貴方になにも返していないと涙を堪えながら言う私に、彼は微かに首を振りながら話してくれた。
『いいさ、君はずっと僕のそばにいてくれたね。それだけで十分。この人生に、悔いはなにもない』
静かに逝ったあの人を思い出しながら、私もまた、布団の上に身を横たえている。ここ数日で急激に体の自由が効かなくなり、今では一人では起き上がることもできない。
…そろそろ私の番ね、と思う。
「こんにちは、母さん。今日は体の調子がいいみたいですね」
「こんにちは、おばぁちゃん!」
入ってきたのは、私とあの人の子供と、その孫。孫に微笑み、娘に顔を向ける。
「あら、どうして?」
「ふふ、だって母さん、なんだか綺麗な顔しているから」
「……そうね」
それはやはり、私も悔いがないからだろうか。
「ねえ、おばあちゃん。今日はね、お外がキレイだよ」
キレイ、という言葉が気に入った様子の孫は、私の手を引っ張り外へと急かす。元気一杯で、ちょっぴり強引なところはあの人そっくりだと苦笑した。
「こら、ひっぱっちゃだめでしょ。でも、母さん。本当に外は凄いです。出てみますか?」
「ええ、お願いしてもいいかしら?」
車椅子に乗り、外に出てみる。とても良い天気だった。
「凄い…」
目の前は一面、白と桜色に覆われていた。一面に咲く、満開の桜の花。神秘的な美しさに、思わず息をのんだ。
「昔皆で行ったお花見を思い出しますね」
「…ええ、そうね。桜はいつも綺麗だけれど、あの時の桜はとても…」
霞んで薄れた記憶の中にも、あの日の桜は満開に咲いていた。
―あの優しかった場所は 今でも変わらずに僕を待っていますか? 今はこみ上げる寂寞の思いに 拭ってくれる指先を―
「あら…ラジオ?」
聞こえてくる音色。それは、いつか聞いたあの人の曲に似て…
「なんだか眠くなってきたわ。悪いけれど、少し眠らせてもらうわね」
「はい、では部屋へ戻りましょう」
「いえ、この香りに浸っていたいわ」
「そうですか。では、少ししたら戻ってきますね」
あの子の足音を聞き、桜を見ながらゆっくりと瞼を落とす。すぐに、急激な眠気が襲ってきた。
どうやら、本当の終わりが来たみたいだ。
死に目に立ち会ってはもらえないようだ。でも、それでも私は今十分に幸せだ。
死ぬときは家族に包まれてと願っていたけれど、最期の最期で願いが叶うなんて。
体の感覚はもうない。軋む間接や、咳をしそうになる喉の痛みも、もう。
ただ、ゆったりと白い光の中を彷徨っているような感覚だけが残っているようだ。
不思議と穏やかな気分だった。まるで、あの人の腕に抱かれているような…
『お疲れ様でした』
白い光の中で、ふいにかけられた声に意識を向けると、目の前に真っ黒な服を着た少女が立っている。向こうの世界からのお迎えなのだろうか?
『そう…お迎えはもっと怖いものだと思っていたけれど、ちょっと安心したわ』
その言葉に、黒服の少女は微笑を浮かべた。
『私はずっと、貴方を見ていました。誰かの為に生きていく貴方の姿勢に、救われた人はとても多かった』
少女は微笑みながら言葉を続ける。
『そして、彼と出会った事で貴方自身も救われました。……この一生は、幸せでしたか?』
彼女は私に問いかける。その瞳はまるで、私がどう答えるかを知っているようだった。
『ええ、もちろん。失敗も反省もあったけれど、悔いだけはなかったわ』
それが私の答え。ありきたりで月並みかもしれないけれど、私が生きてきて得た答えだった。あの人と同じ答えに辿り着けたことを、本当に誇りに思う。
『良かった、そう言ってくれると思いました。…貴方を、ソウルストリームへ導きます』
『え…?』
『貴方には第二の人生を生きる資格があります。そして、彼も。彼は一足先に行って待っているそうです。今の名は…ティンさんですね』
どこへ行くのかわからないけれど、あの人がいるのなら…きっとそこはとても良い場所なのだろう。
あの優しかった場所には、続きがあったようだ。
『楽しみね。また、あの人に会えるのかしら』
私は再び白い光に戻り、その流れに身を任せた。
『ようこそ、エリンへ。今日も良い一日を』